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小倉はこんな街(古代~近世篇)
かつてこの地には、宇治川の遊水池といえる
『巨椋池(おぐらいけ)』がありました。
平安京を決めた時のこと。
都の護り神となる四人の神様のうち、
南側の神様を「朱雀の霊獣」といいます。
この朱雀の霊獣を巨椋池にあてはめた、
という説があります。
陰陽道(風水)に基づく考え方なのですが
南側に巨椋池があることが
平安京の成立条件の一つになったかもしれない、
​という仮説があります。
余談ですが、他の三人の神様になぞらえたのが
北の船岡山、東の鴨川、西の山陰道
話が長くなるので、興味のある方は
​緑のボタンを押してみてください。
(外部リンクが表示されます。)
巨椋池干拓之碑.jpg
さて、巨椋池の痕跡ですが
残念ながらほとんど残っておりません。
現在残る最大の痕跡といえるのが
巨椋池土地改良区事務所(槇島町)の
『巨椋池干拓之碑』。
巨椋池干拓事業の終了後の昭和19年、
当時の農林大臣である井野碩哉の揮毫が
どんと座った、大きな碑です。
逆の言い方をしますと
日本最大の「池」が消滅したのに
この程度の碑しか残っていないのか?
などと思ってしまいます。
干拓により、巨椋池で漁をしていた
小倉地域の漁師さんは大きな賭けをして
他事業に乗り出しました。
国力増進のためとはいえ
​あっさりしたものです。。。
それから、巨椋池の痕跡は
地図の上にも残っています。
巨椋池の名物として、
コイやフナなどの淡水魚の他、
「巨椋池の蓮(はす)」がありました。
シーズンには
​蓮を見るための小舟が多数浮かび、
善男善女が鈴なりになっていたそうです。
その蓮が多く生えていたのが
現在の蓮池地区であり、
今でも「蓮池」という地名が
往時を控えめに伝えています。
この地を掘り返すと、
​蓮の実が出てくることも多いそうですよ。
蓮池.jfif
木幡池.jpg
なお、京都競馬場にある
コースの内側にある、有名な池。
あの池を巨椋池の名残、
という話がありますが
違 い ま す 。
たしかにあの地は昔、湿地帯でしたが
京都競馬場は今も昔も、宇治川の北。
南側に位置した巨椋池とは
水系が同じというだけで、
関わりはありません。
同じ宇治市内にある
木幡池(こはたいけ)は、
宇治川の流路が変わった時に
取り残されたという経緯を持ちます。
 
むしろ、木幡池のほうが近い親戚ですね。
畔の桜が綺麗な、愛すべき池です。
閑話休題(笑
本題に戻ります。
 
宇治が平安貴族の別荘地として
愛されたのは、ご存じの事でしょう。
なかでも、風光明媚な巨椋池は
たくさんの歌に詠まれています。
世の中を 何に譬へむ あさぼらけ
こぎゆく船の あとの白波
(沙弥満誓)
巨椋の 入江響むなり 射部人の
伏見が体に 雁渡るらし
(詠み人知らず)
西山の稜線を借景に、
西の空に浮かぶ月が
巨椋池の水面に姿を映す。
今も残る別荘地の名残、
松殿山荘から見る風景からは
いにしえの巨椋池を想像できます。
松殿山荘1.jpg
小倉堤.jfif
現代に残る小倉堤の遺構、槇島町三軒家。
​昔の堤の両側に家が建ち並びます。
周りとの高低差がわかるでしょうか?

時が移り、太閤秀吉公が伏見城を築きます。

太閤さんは、巨椋池の大改修を行ないます。

それまで巨椋池に流れ込んでいた宇治川を、

今のように木幡、六地蔵を経て、

伏見に至る流路に改修しました。

 

さらに京と南都(奈良)を最短で結ぶため、

巨椋池の真ん中に堤(小倉堤)を築き、

大和街道を堤の上に通します。

伏見城の南には、豊後橋という橋を架け

今の伏見簡裁の近くにあった

伏見城(指月城)の城下町に導きます。

小倉堤は旧大和街道(≒国道24号線)、

豊後橋は観月橋の原型です。

豊後橋の由来は、

太閤さんが豊後の国主だった大友氏に

普請をさせたことが由来です。

幕末の鳥羽・伏見の戦いで焼け落ち、

明治になって架けなおした時、

観月橋と名を変えています。

こうして巨椋池は水路を断ち切られ、

堤で二つに分けられました。

のちさらに大池堤、中池堤が築かれ、

四つに分けられてしまいます。

綺麗だった巨椋池は以後、

水質の悪化と土砂の堆積が始まります。

やがて湖として「死に体」となっていきます。

巨椋池_明治42年.jfif
大日本帝國陸地測量部作成の二万正式図「淀」に見る、明治42年の巨椋池。
国土地理院『地図・空中写真閲覧サービス』により取得。

江戸時代には水深が浅くなり、

夏には蚊が発生します。

蚊は、伝染病の媒介をしますよね。

巨椋池は、「おこり」=マラリアの

発生源となっていきます。

 

土砂の堆積によって湛水能力もなくなり

水害を多発させます。

はやくも明治時代の終わりには、

干拓の必要性が説かれていました。

やがて、激動の昭和を迎えます。

十五年戦争を乗り切るため、

食糧増産が必要になります。

真っ先に巨椋池の干拓が挙げられたのは、

むしろ当然のことでした。

 

昭和8年に起工式が行なわれ、

8年余の歳月をかけ干拓が完了。

 

起工式は向島小学校。

竣工式は小倉国民学校(小学校)で

行なわれています。

 

干拓田で獲れる米は1万5千石あまり、

言い換えれば大名家一つ分の食料を

増産することができるようになりました。

干拓寸前の巨椋池.jpg
昭和前期、干拓が開始される寸前の巨椋池。
​農林水産省 近畿農政局の所蔵
前川堤の桜.jpg

一方で、巨椋池は漁業でも栄えます。

小倉村・槇島村のほか、

東一口村(ひがしいもあらいむら)は、

鯉や鮒が多く獲れることで有名でした。

今の世なら漁業権をめぐって、

国と住民の長い闘争が行なわれるのですが、

時代が時代です。

補償もわずかなものだったと聞きます。

とまれ、巨椋池の水はなくなりましたが、

水の流れが止まったわけではありません。

24時間ポンプで水を汲み、干拓田には

水路が縦横に張り巡らされています。

 

そのなかでも、久御山町東一口の水路沿い

『前川堤の桜』は有名ですね。

巨椋池は、「干拓」で姿を消しました。

 

干拓地とは読んで字のごとく、

干からびさせて拓(ひら)いた土地であり、

埋立地とは違います。

 

簡単に言えば、

かつての湖底がそのまま農地となったわけです。

悪く言うと、水を注げば元の湖に戻る。

水害が懸念される最大の要因となっています。

そして、その懸念が実際に災害となります。

昭和28年の水害で宇治川左岸の堤防が決壊、

伏見区向島、宇治市、久御山町などの

旧巨椋池一帯を、ひと晩で泥海に変えます。

完全排水まで数十日を要した、大水害でした。

この時、架けたばかりの隠元橋が流れます。

​幸うすい初代は数年の命でしたが、

再建された二代目は長命を得ることができ、

平成20年に役目を終えました。

昭和28年の大水害をきっかけとして

天ケ瀬ダムが建設され、昭和35年に完成。

ダムの完成で水害の懸念は緩和されますが、

500ミリの雨が数日続くこともあり得る昨今

​水害の記憶を消すことは、あまりにも危険です。

宇治川決壊_市民だより.jfif
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